病は悪か。

ソクラテスと ある知者の会話

ある知者

「健康が善で、病が悪だ!」

 

ソクラテス

「それなら、病にかかり船旅を諦め、

乗船するハズだった、その船が難破して

命拾いした人がいた。

それでも、病は悪か?」

 

ある知恵者「・・・・・」何も言い返せず。

 

 

 

よく「病気になると皆に迷惑がかかるから」と言う言葉を聞きます。

病人は、病気の意味や苦しさを学び、人に伝える役目があるのではないでしょうか?

「今の私は、『病気』が仕事です。

健康なあなたに、愛を持って

今のありがたさを 伝えてる。

メッセンジャーなのです。」

なんて言えるようでありたい。

「痛み」とは

この春より、シニア向けの

痛みを緩和する リラックス・セルフケアをはじめている。最高年齢は90歳である。

「痛み」は、肉体面と精神面の両方からのアプローチが大切である。

今感じている「痛み」を自分でも和らげる事が出来る事を体験する。と、次第に、誰にも依存しない「自分で自分をみる」「多少のことなら自分で、なんとか出来る」と言う自信が湧いてくる。

それが、ますます状況を良くしていく。

そばで指導する私の方が、驚くこともある。

人間には、自分で癒す力が本当に存在しているのだ。

畏敬の念

今日偶然に、幼馴染と遭遇した。

私がエステを辞め「スピリチュアル」な事をやり始めていると知って、何かの新興宗教にでも入ってしまったのかと心配していたらしい(苦笑)

スピリチュアル=宗教という構図が、まだ根強く残っているのだろう。しかし、私は特定のどの宗教にも属してはいない。

また、ある人はスピリチュアルを、パワースポット神社巡りなど「現世御利益」を求めるツールのように捉える方もいるだろう。j

確かに、私は近くの氏神様や神宮には、時間があればお参りをしているが、これは畏敬の念を持って神前や神木と向き合うと、私の場合より自分自身を客観的に観れるからである。

私は今まで数多くの人の身体を施術させ頂いてきた。だからこそ人間が肉体だけの物ではなく、「霊魂」と言う存在であると信じる事が出来る。それゆえに目に見えないものに「畏敬の念」を抱くのである。

そこにお参りしなければ、その宗教を信じなければ「御利益」がもらえない…となれば、それは余りにも目に見える「物質的価値観」ではないだろうか?

目には見えない「霊的価値観」だからこそ、尊く自然に手を合わせ感謝したくなるのだと思う。

スピリチュアルとは「宗教」ではなく、「現世利益」を得るものでもなく、「畏敬の念」を持つ事だと思う。

 

 

怠慢な日々。

以前の私は、「充実した日々を送る」ことを目指していた。

一生懸命に働き、家事をこなし、休日は子供や家族とできるだけ過ごす。時間があれば、体を鍛え、専門知識を深めるセミナーに参加する。時には、温泉や舞台や音楽会に行く…。当然のことながら、私のスケジュール帳はビッシリと予定が入っていた。

「予定がいっぱい」=「充実した日々」だったのだ。

しかし、スピリチュアルリズムを学びはじめてから、

一人の時間を優先し、極力予定を入れないようになってスケジュール帳は涼しげになった。

それは、一人でいる時間がないと「自分自身の考えや欲望や行動について客観的に観察する」熟考する事が難しいのである。「内観」する時間の確保である。

まだまだ「己を悟」ほどの領域には、とても程遠い。が、それでも「内観」することで、自分の奥のほうに内在するエネルギー「理性」や「大我」と言うものが非常にわかりやすくなってくる。

そして、今の方が「予定がいっぱい」のときより、あきらかに人生は充実して「思いを込めて生き抜いている」と断言できる。

自分を顧みる時間がないほど、多忙だった自分を「なんと怠慢な日々を送っていたんだ」と深く反省するのである。

 

 

 

 

 

明治神宮

朝、氏神様や明治神宮に参拝に行く。

とくに明治神宮の参道は長く、歩きながら季節の風を感じ、その道のりは、静かに自分自身と向き合える貴重なひと時である。

明治神宮は全国参拝者が最も多いとも言わているが、それは、原宿の表参道からの龍脈が流れているのと関係があるのかも知れない。

そんな地の利の良い環境もあり、近年、外国観光客の参拝が増えて来ている。

警備の努力もあると思う。ほとんどの外国人観光客は、マナーを守り、記念写真を撮り、ガイドの説明に合わせて、手を清め、二礼二拍一礼をしている。

その姿を見ていると、教育勅語の「博愛」の心を思い出すのである。

そして、明治天皇の懐の深さと表現するべきなのか、明治天皇は今でも「世界平和」を願い、天からこうして実践しているのではないだろうか?と感じるのである。

外国人、宗教こだわらず、私達に内在する「神我」がお互いに奥の方で一つに結びついている事を教えてくれているのだろう。

 

そして、毎回のごとく、未熟な自分を反省し、気づきの感謝と平和への祈りをする。

神前と向き合うと、小我な願いはとてもいう気にはならないものである。

スピリチュアリズム

18世紀以前までは「霊的」なことは「宗教」の専門分野でしたが、

1848年に初めて、アメリカのフォックス家でラップ音が鳴ったことから、霊界との通信が始まり。そこからが「近代スピリチュアリズム」の幕開けです。

その後、第一級の科学者達がその「心霊研究」を進めるうちに、「霊」の存在を認めざるを得なくなり、英国を中心にノーベル物理学者シャルル・リ。シャーロックホームスの著者コナン・ドイルなどがスピリチュアリズムの先駆者となり、「英国スピリチュアリズム協会」が設立されました。

同じ頃、ドイツでは神秘思想家アドルフ・シュタイナーが台頭し「人智学」やそれに基づいた「シュタイナー教育」が確立されました。

 

現在の英国では「スピリチュアル ヒーリング」には保険も適用され。英国王室の主治医にはスピリチュアルヒーラーもおります。英国民にとって「スピリチュアル」は非常にポピュラーになっています。

ここで大切なのは「死後の世界」とかいう事より、「私たちは、なぜ生まれて。どのように生きるべきか?」と言う答えが「霊的真理=霊的摂理」の中にしかない。という事です。

そして、日本では、TVの影響もあり「霊・魂」と言う言葉には、だいぶ抵抗がなくなってきているようです。しかし、まだまだ「霊的真理」と言うレベルでは、残念ながら正しく伝わってはいません。

その「霊的真理=霊的摂理」という観点からみると、

英国スピリチュアリズムの流れをくむ「スピリチュアリズム普及会」や

英国でスピリチュアリズムを学び、日本スピリチュアリスト第一人者の江原啓之氏が設立した「日本スピリチュアリズム協会」の2つが主でしょう。

 

なぜなら、「霊的摂理」を明確に、一切の不条理や曖昧なしに伝えているからです。そして、どこを切っても「金太郎飴」のように、どこから問題を照らし合わせても、その「霊的摂理」が正しく当てはまるのです。

時としてその摂理は、厳しさもあり冷たく感じる事もありますが、だからこそ、理性で「大我」以外のなにものでもないと、上記の2つからは学び取ることが出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

気を使う事

エステティックをしていた頃の話だが

初めて私のサロンで働き始めたばかりのスタッフは、よく「気を使って」てくれる。

「気を使う」と言うのは、よくよく観察してみていると、一生懸命頑張って真面目にやっている人に多い。誠心誠意やってくれている、その思いが伝わってくる。

しかし、その思いは、頑張っている自分を伝えようとする所から発生している。だから、その「気を使う」事に対して、「感謝」の反応が有ると、充実感を感じる。

だが相手が、その気を使うのに馴れてしまい、又は気がつかない場合には、

ガッカリするなり

「なんて鈍感な人なの」と怒るなり

なんらかの感情が湧き上がってきて、そして「気を使う」こと自体に、疲れを感じるのである。

決して、「気を使う」事が悪いのでもなく、一生懸命頑張っているのがイケナイと言っているのではない。

ただ、厳しい言い方かもしれないが、気を使う事で相手から自分の存在を感じたいと、「感謝の見返り」を求めている自分を自覚しなければならないのだ。

だから時として、一部の人からは「おせっかい」と感じることもある。

 

しかし、

相手からの「感謝」を期待する事がなく、淡々と仕事がこなせてくると、必要以上に、自分が疲れず、

時には「気がきく」ようになり、

「さすがベテラン、安心できるワ💖」と言われはじめるのである。

プロと言うのは、自分の感情に流される事なく、自分の仕事を常に冷静に見つめ、的確に対応し、こなせる人を言うのだと、私は思う。

 

 

「ありがとう」を求める

美容学校時代に、「ありがとう」と言われる職業に就きたいと言っていたことがありった。

「ありがとう」って言われると、励みになるし嬉しくもなる。もちろん、その言葉を頂いた時は素直に喜んでよいのだが、

しかし、「感謝」されることを求めて仕事をするのは、自分が相手に「感謝」と言う「見返り」を求めているのである。その見返りがあればいいけど、ない時には仕事が一層キツク感じられて、辛くなっていくものである。

よく「会社の為に…」などと言って仕事をする方もるが、その大勢の方が、同じように「見返り」を求めているから空回りになってしまうのではないか。

本当のプロは、見返りを求めず、淡々と的確に仕事をこなす。だから感情に流されないので、必要以上に精神的な疲れが出ない。

仕事に限らず、家庭でも「ありがとう」を求めると、見返りがないと疲れを感じる。が「無償の愛」は疲れを感じない。

自分の思いで「疲れて」いるだけだったりする。

 

 

 

 

 

 

 

病気は、タイミング

今朝、神宮参拝の帰り道で、カプリスのお客様だったご婦人に偶然お会いした。

開口一番に「先生〜!こんな所で偶然。私、癌が無くなちゃったんですヨ‼︎」と輝く笑顔で話し掛けてくれた。

彼女は、70歳前後であるが、10年前に乳癌になり、4-5年前にもまた、乳癌が再発した方である。当時、よく体のケアにいらしていたが、癌への恐怖、孤独感、老いていく不安感などが、いっぱい詰まっていて、それが体を硬く緊張させていた。心情が体に影響するのは、彼女自身頭で理解していたが、当時の彼女の体が受け入れるのは、なかなか難しかった。

そして、何度、彼女の後ろ姿を祈りなが見送った事か…。

しかし、今朝、声を掛けられるまで分からないほど、彼女は、変身していた。

「先生あれから、色々あったけど、何て言うか…もそう自分の中で、今までのしがらみが…もうどうで良くなっちゃって…綺麗さっぱり捨てたら、癌までサッパリ無くなちゃったんです‼︎」

そして今は、毎朝小学生の登校時に横断歩道にたって、交通安全をしているらしい。

 

よく病気になると、「私の何がイケナイなかったのか?」と悩む方がいるが、「病気」は決して悪ではないし、まして「罰」でもない。自分自身と向き合うタイミングを与えてくれているのである。

介護してもらう事で、無償の愛を感じたり、忘れていた当たり前の事に感謝する事に気づくのである。

スピリチヤルリズムを実践すると言う事は、何かを得たり、何かに到達したりするのではなく、むしろ、捨ていく事ではないだろうか?そして「すでにある、ものに気づく」事だと思う。

今朝、彼女にお会い出来た事を心より感謝したい。

 

 

「悩み」の本質

私達は生きている限り、この「肉体」を維持し続けるので、どうしても物質的社会からは抜けることが出来ない。

 

仙人のように霞を食べて生きていくことも出来ず、天女の羽衣で空が飛べるわけではない。実際に食物を食べ、実際に乗り物に乗り移動する。「物」が存在する「物質社会」。

 

ただ、この物質社会の中にいると「物質的価値観」だけで、どうしても「幸せ」を計ってしまう。

無いよりある方が良い…と思えば、無意識のうちに執着がでる。

寿命でも、「長生きが幸せ」と物質的に捉えれば、おのずと「死」に恐怖感が湧いて来る。

例えば「健康が一番」と思えば「病」は敵となり、遺伝子検査で「子宮がん」の可能性があると言われたら、予防のために健康な子宮を切除する人もいる。

 

結局のところ、物質=有限であるものに「価値」を見だそうとすれば、それが無くなる、恐怖感・不安・絶望感は必ずついて回る。

 

ある統計で、私達の抱える悩みの90%以上は「物質価値観」から起きていると言われている。ほとんどの「悩み」は自分の価値観が作り出しているのである。

 

そして、この「物質的価値観」の悩みから解放されるには「足るを知る」こと。

「足りている」=「満たされている」この感覚こそが、私達が目指さなければならない「真の幸福感」だと私は思う。

 

動物には無い「物欲」「エゴ」(物質的価値観)の肉眼で見ることにより、私たちは悩まされるが、また反対に、内側の「霊的(精神的)価値観」でみる霊眼も人間だけしか持っていない。

 

そんな私も未熟であるが故、少しでも油断すると「物質的価値観」に流されて、グルグル同じところで悩んでしまう。「足る」を忘れて自己を見失わない様、注意深く内観し、「霊的価値観」を養っていきたい。