「老いる」と言う事

昨日、はじめての試しみだった

「痛み緩和のリラックス セルフケア」が終了した。

 

最高年齢90歳、平均年齢83歳である。

はじめは、どのくらい意欲的に身体を動かす事が出来できるのか、手探りであったが、回を追うごとに自分の体と真摯に向き合い、驚くほどの変化が得られた。

それは、体だけでなく、むしろ「心」が穏やかに変化している。

 

はじめは

「歳だから、仕方ない…」

「せめて、子供たの迷惑にならないように…」

こんな言葉が聞こえていた。

 

しかし

90歳であろうと、88歳であろうと、身体の状態が、あきらかに良くなっていると実感してくると

「歳だから…」と言って、自分で自分の枠を作っていたのに気づきはじめる。

それを見ていた79歳の方は

「来月80歳を迎えるのが、怖くなくなった」と言っていた。

 

「歳だから…」と言って、

自分を卑下しているようだが、実際は

「だから、私はカ・ワ・イ・ソ・ウ」

と人に依存したいのだ。

依存は、「孤独」を呼び起こす。

 

そして、孤独になりたくないから

「子供達の迷惑にならないように…」と考えてくる

 

 

そう言う気持ちを、若い人が感じとって

歳をとる事=人に迷惑をかける事と思うだろ。

老後の未来は暗い…と

 

セルフケアをする事で、

体が変化するのを感じ、自分の身体は自分でケアする自信が付いてくる。

そして

病気や痛みの辛さや、もどかしさは、あるけど

その年齢にならなければ、決して得られない、幸福感もあると言う事。

そんな、メッセンジャーとしての大役をするからこそ

歳を重ねているのだと、

誰にも遠慮する事なく、誇りを持って「孤高」に生きて頂きたいたい。

 

 

諸先輩方の生き様を見て

それが私達の「希望」となるのである。

 

「躾」と言う盾

先日

高校生の子供が、何度言っても部活着や、食べ終えたお弁当箱をなかなか出さない…

どんなに、怒ろうと相手もその上をいく態度に、随分とイライラしているお母さんがいらした。

 

この時の、母親の心理としては、2つあると思う。

1つは、母親自身が後で面倒な事になりたくない。

2つ目は、「躾」だから…と

この「躾」と言う言葉は、時として親にとって、非常に都合の良い水戸黄門の「印籠」のようなものになる。

「あ・な・た・の・為 に、言っている…」と

でも、その裏にある感情は

「親である自分」の存在を確認させたかったのだ

まさに、水戸黄門のように、

「はっはっは〜〜 お母さんのおっしゃる通りです」と。

厳し言い方だが、

「母親である私はあなたとって、必要な人」と…

さらに深く観察すれば、「子供に依存」しているのである。

 

思春期を迎えた息子は、自我が目覚めはじめているから、微妙な親のエゴを本能的に見抜いてくる。

 

本当に、母親のプロフェッショナルを目指すのであれば、

「自分が面倒な事になりたくない」と思うなら、自分の都合で、淡々とお弁当箱を洗えばいい。

 

「躾」と言うならば、「本人に任せる」のである。

「任せる」と「期待する」のは違うのも付け加えておこう。

 

一生懸命、子育てをした親ほど、時として「躾」と言う言葉を盾にしているかも知れない。

 

子供の態度に、今一度、自分の姿を見つめてみたい。

カプリスの活動

今日から6月、水無月。

ここ最近、エステに関する問い合わせが多くありました。

長くからお付き合いのあった方、10年ぶりにお問い合わせ頂いた方など、本当にありがとうございました。

しかし、残念ながらご期待に沿うことが出来ず、申し訳ありません。

 

カプリスは今、

痛みを緩和する

リラクゼーションセルフケアの普及活動をしています。

それに伴い、私自身の軸がぶれないよう。

スピリチヤルリズムの学びを深めるために、勉強会もしています。

 

人は必ず

「痛み」や「老い」そして「病気」と向き合う時が来ます。高齢者社会の今、介護者も介護する人も「自立と自律」が求められています。肉体だけを見つめていたら、常に老いていく事に恐怖心がつきまといます。

老いてからこそ「真の喜び」「真の幸福」を見つけられるよに。

そんな思いからリラクゼーションセルフケアはスタートしています。

徐々ではありますが、スピリチヤルリズムの考え方は、高齢者の方々にも受け入れて来ているようです。

リラクゼーションセルフケアの輪は、確実に広がりつつあります。

 

尚、カプリスの活動は全て外部で行っております。

お問い合わせは、下記メールにてお願いいたします。

n.nara@fuji-capris.com

病は悪か。

ソクラテスと ある知者の会話

ある知者

「健康が善で、病が悪だ!」

 

ソクラテス

「それなら、病にかかり船旅を諦め、

乗船するハズだった、その船が難破して

命拾いした人がいた。

それでも、病は悪か?」

 

ある知恵者「・・・・・」何も言い返せず。

 

 

 

よく「病気になると皆に迷惑がかかるから」と言う言葉を聞きます。

病人は、病気の意味や苦しさを学び、人に伝える役目があるのではないでしょうか?

「今の私は、『病気』が仕事です。

健康なあなたに、愛を持って

今のありがたさを 伝えてる。

メッセンジャーなのです。」

なんて言えるようでありたい。

「痛み」とは

この春より、シニア向けの

痛みを緩和する リラックス・セルフケアをはじめている。最高年齢は90歳である。

「痛み」は、肉体面と精神面の両方からのアプローチが大切である。

今感じている「痛み」を自分でも和らげる事が出来る事を体験する。と、次第に、誰にも依存しない「自分で自分をみる」「多少のことなら自分で、なんとか出来る」と言う自信が湧いてくる。

それが、ますます状況を良くしていく。

そばで指導する私の方が、驚くこともある。

人間には、自分で癒す力が本当に存在しているのだ。

畏敬の念

今日偶然に、幼馴染と遭遇した。

私がエステを辞め「スピリチュアル」な事をやり始めていると知って、何かの新興宗教にでも入ってしまったのかと心配していたらしい(苦笑)

スピリチュアル=宗教という構図が、まだ根強く残っているのだろう。しかし、私は特定のどの宗教にも属してはいない。

また、ある人はスピリチュアルを、パワースポット神社巡りなど「現世御利益」を求めるツールのように捉える方もいるだろう。j

確かに、私は近くの氏神様や神宮には、時間があればお参りをしているが、これは畏敬の念を持って神前や神木と向き合うと、私の場合より自分自身を客観的に観れるからである。

私は今まで数多くの人の身体を施術させ頂いてきた。だからこそ人間が肉体だけの物ではなく、「霊魂」と言う存在であると信じる事が出来る。それゆえに目に見えないものに「畏敬の念」を抱くのである。

そこにお参りしなければ、その宗教を信じなければ「御利益」がもらえない…となれば、それは余りにも目に見える「物質的価値観」ではないだろうか?

目には見えない「霊的価値観」だからこそ、尊く自然に手を合わせ感謝したくなるのだと思う。

スピリチュアルとは「宗教」ではなく、「現世利益」を得るものでもなく、「畏敬の念」を持つ事だと思う。

 

 

怠慢な日々。

以前の私は、「充実した日々を送る」ことを目指していた。

一生懸命に働き、家事をこなし、休日は子供や家族とできるだけ過ごす。時間があれば、体を鍛え、専門知識を深めるセミナーに参加する。時には、温泉や舞台や音楽会に行く…。当然のことながら、私のスケジュール帳はビッシリと予定が入っていた。

「予定がいっぱい」=「充実した日々」だったのだ。

しかし、スピリチュアルリズムを学びはじめてから、

一人の時間を優先し、極力予定を入れないようになってスケジュール帳は涼しげになった。

それは、一人でいる時間がないと「自分自身の考えや欲望や行動について客観的に観察する」熟考する事が難しいのである。「内観」する時間の確保である。

まだまだ「己を悟」ほどの領域には、とても程遠い。が、それでも「内観」することで、自分の奥のほうに内在するエネルギー「理性」や「大我」と言うものが非常にわかりやすくなってくる。

そして、今の方が「予定がいっぱい」のときより、あきらかに人生は充実して「思いを込めて生き抜いている」と断言できる。

自分を顧みる時間がないほど、多忙だった自分を「なんと怠慢な日々を送っていたんだ」と深く反省するのである。

 

 

 

 

 

明治神宮

朝、氏神様や明治神宮に参拝に行く。

とくに明治神宮の参道は長く、歩きながら季節の風を感じ、その道のりは、静かに自分自身と向き合える貴重なひと時である。

明治神宮は全国参拝者が最も多いとも言わているが、それは、原宿の表参道からの龍脈が流れているのと関係があるのかも知れない。

そんな地の利の良い環境もあり、近年、外国観光客の参拝が増えて来ている。

警備の努力もあると思う。ほとんどの外国人観光客は、マナーを守り、記念写真を撮り、ガイドの説明に合わせて、手を清め、二礼二拍一礼をしている。

その姿を見ていると、教育勅語の「博愛」の心を思い出すのである。

そして、明治天皇の懐の深さと表現するべきなのか、明治天皇は今でも「世界平和」を願い、天からこうして実践しているのではないだろうか?と感じるのである。

外国人、宗教こだわらず、私達に内在する「神我」がお互いに奥の方で一つに結びついている事を教えてくれているのだろう。

 

そして、毎回のごとく、未熟な自分を反省し、気づきの感謝と平和への祈りをする。

神前と向き合うと、小我な願いはとてもいう気にはならないものである。

スピリチュアリズム

18世紀以前までは「霊的」なことは「宗教」の専門分野でしたが、

1848年に初めて、アメリカのフォックス家でラップ音が鳴ったことから、霊界との通信が始まり。そこからが「近代スピリチュアリズム」の幕開けです。

その後、第一級の科学者達がその「心霊研究」を進めるうちに、「霊」の存在を認めざるを得なくなり、英国を中心にノーベル物理学者シャルル・リ。シャーロックホームスの著者コナン・ドイルなどがスピリチュアリズムの先駆者となり、「英国スピリチュアリズム協会」が設立されました。

同じ頃、ドイツでは神秘思想家アドルフ・シュタイナーが台頭し「人智学」やそれに基づいた「シュタイナー教育」が確立されました。

 

現在の英国では「スピリチュアル ヒーリング」には保険も適用され。英国王室の主治医にはスピリチュアルヒーラーもおります。英国民にとって「スピリチュアル」は非常にポピュラーになっています。

ここで大切なのは「死後の世界」とかいう事より、「私たちは、なぜ生まれて。どのように生きるべきか?」と言う答えが「霊的真理=霊的摂理」の中にしかない。という事です。

そして、日本では、TVの影響もあり「霊・魂」と言う言葉には、だいぶ抵抗がなくなってきているようです。しかし、まだまだ「霊的真理」と言うレベルでは、残念ながら正しく伝わってはいません。

その「霊的真理=霊的摂理」という観点からみると、

英国スピリチュアリズムの流れをくむ「スピリチュアリズム普及会」や

英国でスピリチュアリズムを学び、日本スピリチュアリスト第一人者の江原啓之氏が設立した「日本スピリチュアリズム協会」の2つが主でしょう。

 

なぜなら、「霊的摂理」を明確に、一切の不条理や曖昧なしに伝えているからです。そして、どこを切っても「金太郎飴」のように、どこから問題を照らし合わせても、その「霊的摂理」が正しく当てはまるのです。

時としてその摂理は、厳しさもあり冷たく感じる事もありますが、だからこそ、理性で「大我」以外のなにものでもないと、上記の2つからは学び取ることが出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

気を使う事

エステティックをしていた頃の話だが

初めて私のサロンで働き始めたばかりのスタッフは、よく「気を使って」てくれる。

「気を使う」と言うのは、よくよく観察してみていると、一生懸命頑張って真面目にやっている人に多い。誠心誠意やってくれている、その思いが伝わってくる。

しかし、その思いは、頑張っている自分を伝えようとする所から発生している。だから、その「気を使う」事に対して、「感謝」の反応が有ると、充実感を感じる。

だが相手が、その気を使うのに馴れてしまい、又は気がつかない場合には、

ガッカリするなり

「なんて鈍感な人なの」と怒るなり

なんらかの感情が湧き上がってきて、そして「気を使う」こと自体に、疲れを感じるのである。

決して、「気を使う」事が悪いのでもなく、一生懸命頑張っているのがイケナイと言っているのではない。

ただ、厳しい言い方かもしれないが、気を使う事で相手から自分の存在を感じたいと、「感謝の見返り」を求めている自分を自覚しなければならないのだ。

だから時として、一部の人からは「おせっかい」と感じることもある。

 

しかし、

相手からの「感謝」を期待する事がなく、淡々と仕事がこなせてくると、必要以上に、自分が疲れず、

時には「気がきく」ようになり、

「さすがベテラン、安心できるワ💖」と言われはじめるのである。

プロと言うのは、自分の感情に流される事なく、自分の仕事を常に冷静に見つめ、的確に対応し、こなせる人を言うのだと、私は思う。