対話をしよう

スピリチュアル的に言うと

だいたい12-15歳の間で、子供は独立した魂となる。

ちょうどこの思春期は、

親と話す事をとかく鬱陶しく感じるようになり

また、親も屁理屈を言う子供に手をやき

親子の何気ない会話でもままならなくなってくる事が多い。

しかし、この時期から大切なのが『対話』であろう。

 

ググれば

「会話」が、普段の何気ないコミニュケーションに対し。

対話』とは、お互いを理解する為に、本音と本音の話し合いをする事。信頼関係を築く為のコミュニケーション…とある。

 

対話』は、相手と真剣に向きあう話し合うこと。

討論会のように自己主張だけをして、相手を負かし「勝者・敗者」を決めるのではなく。

まずは、人はそれぞれ「正しい」の基準や価値観は違うから、相手側の物の考え「本当の言い分」を聞いて理解する。

そして、お互いが納得出来る、共存する為の「理想の答え」を折り合いをつけながら見つけていこうと譲歩する。

その課程が『対話』であると思う。

 

そして、その土台作りは、家庭での『対話』からだろう。

家族、特に親子間の『対話』は、非常に重大である。親が子供を一人の人間として受け止め、対等に話をしていく…

決して感情に任せて、互いに譲ることなく親子ゲンカになったり

親の権力で無理やり従わせたり

面倒だからといい加減に対応したり…することなく。

 

いや。私達、夫婦同士でもキチント『対話』できているのだろうか?

子供は誰を見て、どこで『対話』を学ぶのだろうか?

 

最近の国際情勢で「対話は要らない、実行のみ」と言われていたが…

私達はそもそも『対話』と言うものを、真に理解しているか?疑問がわいてくる。

祓い清める

早朝の神宮は、いつも参道をきれいに清められている。

掃いても掃いても落ち葉が舞う

風の強い日でも、雨の日でも

丁寧に落ち葉を集め

参道を清め払いている。

 

まるで、自分の煩悩が舞い落ちるのを

なんどでも祓い清める様に

 

永遠に続くような流れの中で

彼らは決して諦めず

落ち葉を集め

次の木の栄養とする為、根本に戻し

自然の摂理を育んでいる。

 

私の心も

なんど祓い清めても、また落ち葉は溜まってくるが

おなじように、諦めずに毎日清め祓っていきたい。

 

参道を行き交う人は、落ち葉が舞い落ちていても

清められ、清め続けるこの参道に

なんとなく、清々しいさを感じているように。

 

 

じゃ 自分はどうするの?

世の中戦争になるのではないかと、色々取り沙汰されている昨今。

国と国の問題ではあるが、根本は同じ「人間」。

まず規模を最小にして、自分自身の中で見つめてみる

日常で同じような事がある…

「私にもその気持ちはあるの、でもあなたが先に譲歩してくれないと、私からは…」

「だって皆んなだって、やってるんですヨ。なんで私だけが言われなきゃいけないの?」

「上から目線で、どうして自分だけがいつも正しいと思うの!」

こんな自分の中にもある感情が、世の中と連動している。

 

自分を変えるのが「難しい」と思えば、

世の中も変わるのは「難しい」。

自分を変えるのに「時間がかかる」と言うなら

世の中が良くなるのも「時間がかかる」。

自分を変わるのが「今じゃない」なら

世の中の平和も「今ではナイ」

 

アリの1歩でも

牛歩のスピードでもいい

まず、自分の中にある「エゴと傲慢」を見つけ

謙虚になる事からではないか。

 

それが、今の私にできる事。