身体の先にあるもの

身体が不調だと気分も滅入ってくる。

痛みなど酷いと、普段なら笑って聞き流せるところが、心に余裕が無いとイライラするのは、経験がある方も多いと思う。

 

反対に、気持ちが身体に現れる事も多い。

歯をくいしばり頑張ろうと思うほど、無駄な力が入り疲れたり。

はじめっから「ダメだ」と思っていたら、当然エネルギーも出てこない。

身体と心はお互い影響しあっている。

 

そして、

肉体が滅び「死」を迎えたら、全て消滅すると思っている人は、

身体の衰えが、即、自分の消滅になるから

本人がそれを意識しているか否か関係なく

肉体が不調になると

無意識に「心」が不安になり

それがまた、肉体に過剰な反応を起こし悪循環になる。

頑固と身体の硬さも比例していると思う。

 

今、シニアクラスの「心と体のセルフケア」を行なっていて

特に高齢者には、それが、顕著に表れている様に感じる。

 

肉体的アンチエイジングよりも

心の柔軟性が必要である。

特に40代以降は、

精神的、静寂な時間を作れるかで「真の健康」への道が変わってくるのではないか。

 

対話をしよう

スピリチュアル的に言うと

だいたい12-15歳の間で、子供は独立した魂となる。

ちょうどこの思春期は、

親と話す事をとかく鬱陶しく感じるようになり

また、親も屁理屈を言う子供に手をやき

親子の何気ない会話でもままならなくなってくる事が多い。

しかし、この時期から大切なのが『対話』であろう。

 

ググれば

「会話」が、普段の何気ないコミニュケーションに対し。

対話』とは、お互いを理解する為に、本音と本音の話し合いをする事。信頼関係を築く為のコミュニケーション…とある。

 

対話』は、相手と真剣に向きあう話し合うこと。

討論会のように自己主張だけをして、相手を負かし「勝者・敗者」を決めるのではなく。

まずは、人はそれぞれ「正しい」の基準や価値観は違うから、相手側の物の考え「本当の言い分」を聞いて理解する。

そして、お互いが納得出来る、共存する為の「理想の答え」を折り合いをつけながら見つけていこうと譲歩する。

その課程が『対話』であると思う。

 

そして、その土台作りは、家庭での『対話』からだろう。

家族、特に親子間の『対話』は、非常に重大である。親が子供を一人の人間として受け止め、対等に話をしていく…

決して感情に任せて、互いに譲ることなく親子ゲンカになったり

親の権力で無理やり従わせたり

面倒だからといい加減に対応したり…することなく。

 

いや。私達、夫婦同士でもキチント『対話』できているのだろうか?

子供は誰を見て、どこで『対話』を学ぶのだろうか?

 

最近の国際情勢で「対話は要らない、実行のみ」と言われていたが…

私達はそもそも『対話』と言うものを、真に理解しているか?疑問がわいてくる。

祓い清める

早朝の神宮は、いつも参道をきれいに清められている。

掃いても掃いても落ち葉が舞う

風の強い日でも、雨の日でも

丁寧に落ち葉を集め

参道を清め払いている。

 

まるで、自分の煩悩が舞い落ちるのを

なんどでも祓い清める様に

 

永遠に続くような流れの中で

彼らは決して諦めず

落ち葉を集め

次の木の栄養とする為、根本に戻し

自然の摂理を育んでいる。

 

私の心も

なんど祓い清めても、また落ち葉は溜まってくるが

おなじように、諦めずに毎日清め祓っていきたい。

 

参道を行き交う人は、落ち葉が舞い落ちていても

清められ、清め続けるこの参道に

なんとなく、清々しいさを感じているように。

 

 

じゃ 自分はどうするの?

世の中戦争になるのではないかと、色々取り沙汰されている昨今。

国と国の問題ではあるが、根本は同じ「人間」。

まず規模を最小にして、自分自身の中で見つめてみる

日常で同じような事がある…

「私にもその気持ちはあるの、でもあなたが先に譲歩してくれないと、私からは…」

「だって皆んなだって、やってるんですヨ。なんで私だけが言われなきゃいけないの?」

「上から目線で、どうして自分だけがいつも正しいと思うの!」

こんな自分の中にもある感情が、世の中と連動している。

 

自分を変えるのが「難しい」と思えば、

世の中も変わるのは「難しい」。

自分を変えるのに「時間がかかる」と言うなら

世の中が良くなるのも「時間がかかる」。

自分を変わるのが「今じゃない」なら

世の中の平和も「今ではナイ」

 

アリの1歩でも

牛歩のスピードでもいい

まず、自分の中にある「エゴと傲慢」を見つけ

謙虚になる事からではないか。

 

それが、今の私にできる事。

今、私達が問われているのは「大我の愛」…

「好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。

そこには徳性 も神聖さもありません。

好感の持てない人を愛する。

これが魂 の霊の高さを示します。

あなたに憎しみを抱いている人のもと に赴くこと、あなたの気にくわぬ人のために手を差しのべるこ と、これは容易なことではありません。

確かに難しいことです。

しかし、

あなた方は常に理想を目標としなければなりません。

他 人にできないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからで す。

可愛そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。

気心のあった人に同情する、これも難しいことでは ありません。

が、敵を愛する、これは実に難しいことです。

愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいこ とです

しかし奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容 貌の人を治療するのは並大抵の心がけではできません。

が、それ が奉仕です。

真の愛は大小優劣の判断を求めません。

愛するとい うこと以外に表現の方法がないから愛するまでです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社) p.142~143

 

「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめ る者のために祈れ。人々にしてほしいと、あなたがたの望むこと を、人々にもそのとおりにせよ。

自分を愛してくれる者を愛した からとて、どれほどの手柄になろうか。

罪人でさえ、自分を愛し てくれる者を愛している。

自分によくしてくれる者によくしたと て、どれほどの手柄になろうか。

罪人でさえ、それくらいの事は している。

また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手 柄になろうか。

罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとし て、仲間に貸すのである。

しかしあなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当 てにしないで貸してやれ。

そうすれば受ける報いは大きく、あな たがたはいと高き者の子となるであろう。」 (ルカ6章・27~28/31~35)

 

祭り

先日、自宅に元気な神輿の声が聞こえてきた。

思わず写真を撮り、アメリカにいる息子にメールした。

すると

息子「うるさそうw」

私「言葉が違うね。 『うるさい』はネガティブ

『にぎやか』とか『元気』が適切な言葉じゃない?

まして、神輿は町中を歩いて、厄を払いご神気を振りまいている。

だから、元気でにぎやかでなきゃ困るでしょ。

うるさいと感じる心か、

元気が出ると感じる心か、

あなたの今の心境が分かるね~」

息子…返信なし。

 

それを聞いた主人が

「あまり言うと、疎ましがられて連絡してこなくなるゾ。」と

 

ちょっと待って!お父さん

そんな、子供に媚びた小我な気落ちでどうするノ?

息子が「うざい」と思って連絡してこなくても構わない。

大切なのは、古来からの祭りの意味を伝えること。

商業性のあるフェスティバルとは違う。

 

と、同時に

息子が日本にいる時に「祭り」の意味を

きちんと伝えていなかった自分を深く反省した。

 

 

人間だもの…

相田みつお さんの言葉に

「人間だもの…」と言うのがある。

 

ある人が、自分の未熟さを慰めるために

「人間だもの…しょうがないよね〜」と言った。

「相田みつおさんだった、言っているじゃない。」

で、まわりも、大きく頷いていた。

ちょっと、待って!

そうだろうか??

「人間だもの…未熟だからこそ『学ぶ為』に生まれてくるんだね〜」

とは読み取れないのだろか?

 

多くの人は、傷ついた時

癒し慰められ、そして「可哀想な自分」を受け入れてもらいたい。

でも、自分の心とは違い

「たましい」は向上を望んでいるのではないだろうか。

 

謙虚と卑下

日本人は「謙虚」を美徳とする。

謙虚は非常に強いエネルギーとなる。

自分がその道でエキスパートとなっていても、「まだまだ自分は…」と言う気持ちが、さらなる向上意欲を生み出してくれる。

 

しかし、

間違いやすいのが

「私なんかが、やっても…」「イヤイヤそう言う器でない…」とか

謙虚なのか、卑下なのか、

それとも相手へ牽制か、相手の出かたを見ているのか?

どんなに言葉は巧みであっても

言葉には「魂」が入っている。「言霊」である。

その人の思考が「言葉」となり

必ず「行動」となって表れている。

 

もし「卑下」がその人にあるならば、自分を卑下する人は、必ずどこかで他人も卑下して差別する言動がある。

 

相手の出かたを見ている人は、必ずどこかで相手からの評価を(特に感謝の言葉とか)無意識に求めている。だから、それが無いとショックを受けたり、理解してもらえないと怒ったりする。

 

謙虚な場合は「させて頂いてる」と言う発想だから、当然周りの評価も求めない。

さらに「自分はまだ未熟」と思えば、相手に期待もしないが、相手を比較して差別するような行動はとらない。

淡々と自分の出来ることを、精一杯やるのである。「謙虚」でなければ、超一流のプロにはなれないとも言える。

 

ほとんどの人は、今どんな言霊を発してるか意識が無い。

ある人が「心で相手を批判しても、絶対に口にしない」と言った。が、その人にその状況では口にしなくても、必ずその「批判する」と言う思考は違う形で出ている。

言動を注意深く見つめていると、分かってくる。

 

マザーテレサの言葉に

思考に気をつけなさい  それはいつか言葉になるから

言葉に気をつけなさい  それはいつか行動になるから

行動に気をつけなさい  それはいつか習慣になるから

習慣に気をつけなさい それはいつか 性格になるから

性格に気をつけなさい それはいつか運命になるから

 

…そう、「幸せな運命」を望むなら、まず、自分の思考を注意深く見つめることからだろう。

帰郷

そばに入れば

色々やってあげられる事もある。

でも、

遠くにいるからこそ

込められる想いもある。

 

想いは時空を超えられる。

老いる

耳が聞こえづらくな

字が見えにくくなり

歩くのが遅くなり

今までより支度に時間がかかり

美味しい食事も食べられなくなり

体の自由が利かなくなり

人のお世話になり

だんだん自分で出来ることが少なくなる

 

けれど

失えば失うほどに 、増えてくるものがある

 

それは

「なにもないのに、幸せ」

「なにもないから、幸せ」

 

その歳にならないと、分からないことがある。

 

 

老いることは、

真の幸福に近づく事かもしれない。